創業者ヒストリー
原田淳博士とnokenの原点
福岡農事研究所(現noken)の創業者であり、農学博士でもあった原田淳。
高麗人参や健康茶「幸泉」の開発・製造を通して、自然の力を人々の暮らしへ届けようとしたその歩みの根底には、「人の役に立ちたい」という強い想いがありました。
韓国での農業開発、高麗人参研究、現地の人々との共同生活。異国の地で人と向き合い、自然と向き合い続けた日々は、のちの福岡農事研究所設立へとつながる大きな原点となりました。
限りない人間愛と、生命への飽くなき探求心。原田博士の歩みをたどりながら、nokenのものづくりの原点をご紹介します。
原田 淳 (農学博士)
1922年、大分県生まれ。広島文理大学にて植物生理学を専攻後、農学博士号を取得。
朝鮮戦争後の韓国において大統領主席秘書官の招きを受け、農業開発や薬草栽培、人蔘製品の製造指導に尽力。自然の恩恵を科学的に引き出す抽出法の確立に生涯を捧げ、福岡農事研究所(現noken)を設立。
韓国との縁に導かれて
創業者・原田淳は、1922年、大分県に生まれました。
原田の父は戦前、役人として韓国へ渡り、広大な土地の干拓事業に生涯を捧げた人物でした。原田がのちに韓国と深い関わりを持つようになった背景には、そうした父の存在が大きく影響していたと考えられます。
昭和16年、原田は広島文理大学に入学。植物生理学を専攻し、その後、農学の道へ進みました。独自の生理理論を農作物や園芸作物に応用し、研究を重ねた末に、農学博士号を取得します。
その後、朝鮮戦争終結直後の韓国において、韓国大統領主席秘書官の招きにより、農業開発や薬草栽培の指導に携わることになります。さらにそのかたわらで、人蔘製品の製造指導にも深く関わっていきました。
ちょうど韓国で人蔘ブームが起こり始めていた時期のことです。当時の人蔘製品は、粗製濫造ともいえる状況にあり、しかも高価なものでした。しかし、そのような技術水準でつくられたものであっても、健康への手ごたえは確かに感じられたといいます。
「人蔘の持つ奥深く、神秘的な力を、もっと確かなかたちで製品に活かしたい。韓国一の人蔘製品をつくり、人蔘に救いを求める多くの方々の役に立ちたい」
その大きな願いが、原田を本格的な研究と改良へと向かわせていきました。
人蔘の力を引き出すために
「韓国一の人蔘茶づくり」という目標を掲げた原田が、まず取り組んだのは、エキスの抽出方法の改善でした。
当時は、数十社に及ぶ製造会社が乱立し、どの会社も製造方法は似通っていました。原料の人蔘を高温で長時間煎じ、黒く、苦く、どろりとしたエキスを抽出し、そこにブドウ糖などを加えて製品化する。そうした製品が市場に数多く出回っていたのです。
二千年もの昔から、人類に恩恵をもたらしてきた高価で貴重な人蔘だからこそ、昔ながらの方法で時間をかけ、十分に煎じた、黒く苦いエキスこそが良いものだと信じられていました。
しかし原田は、当時の最新の学会報告や学術書を詳細に研究する中で、従来の抽出方法に疑問を抱くようになります。人蔘の有効成分である「サポニン」は、熱にも酸にもアルカリにも弱い性質を持っています。その大切な成分を損なわずに抽出するには、理論と技術の両面において、相当な習熟が求められました。
抽出方法を根本から変えるためには、技術そのものの改良だけでは不十分でした。まず必要だったのは、工場で働くスタッフの意識を変えることでした。
現地スタッフとの絆づくり
技術の改善に取りかかる前に、原田が何より大切にしたのは、現場スタッフとの意思の疎通と、信頼関係の確立でした。
他国の人間が工場の中枢に入り、厳しくチェックを重ね、改善指導を行うことには、想像以上の摩擦や抵抗がありました。そこで原田は、まず言葉の壁を越えようと、韓国語を猛勉強します。辞書を片手に、片言の単語を重ねながらも、同じ東洋人として、どうにか気持ちを通わせていきました。
次に立ちはだかったのは、ものの考え方や習慣の違いから生じる誤解でした。大らかな大陸的感覚を持つ現地スタッフと、完璧主義ともいえる日本人的な考え方。その違いを互いに理解し、尊重し合えるようになるまでには、時間が必要でした。
当時、原田は正月とお盆以外のほとんどを韓国で過ごし、韓国一の人蔘茶をつくるという目標に没頭していました。まさに全精力を傾ける日々でした。同じ釜の飯を分け合い、顔を合わせ、膝を交えて語り合ううちに、さまざまな問題も少しずつ解けていきました。
誠意、熱意、真心は、国を越え、人種を越えて、人の心に響く。そのことを、原田は身をもって体験したのです。
志を支えたよき理解者との出会い
原田は韓国での薬草栽培や人蔘茶製造の指導に没頭する中で、生涯にわたり深く交わることとなる一人の青年と出会います。金大東氏です。大学を卒業したばかりの二十代前半の青年で、熱心なクリスチャンでもありました。正直で誠実な人柄は、誰からも信頼され、尊敬され、愛されるものでした。
親子ほどの年齢差がありながら、二人はすぐに意気投合しました。金氏は、早くに亡くした父親の面影を原田に重ねたのかもしれません。心から原田を慕い、公私にわたり、外国人である原田の代弁者となり、手足となって支えてくれました。
当時、原田は工場近くの簡素な旅館に泊まり、工場との往復を続けていました。金氏は毎日のように顔を出し、細やかに気を配ってくれました。時には酒を酌み交わし、仕事の話に夢中になるうち、朝を迎えることもしばしばだったといいます。
技術顧問として招かれた立場とはいえ、日本人の専門家が工場の中枢に入り、改善・改良を進めることは、想像をはるかに超える難しさがありました。それでも「韓国一の人蔘茶づくり」という目標に向かって心をひとつに進むことができたのは、原田自身の韓国での奉仕活動、専門家としての経験、そして誰にも負けない情熱に加え、金大東氏の大きな支えがあったからでした。
今へ受け継がれる想い
やがて原田は、「世界一の人蔘製品をつくる」という夢と目標を掲げ、さらに研究を深めていきます。その過程で、原田は人蔘が持つ奥深く神秘的な魅力に、ますます引き込まれていきました。
人蔘の有効成分であるサポニンは、酵素やホルモン、あるいはビタミンに似た働きを持ち、細胞レベルの新陳代謝を高めることで、身体全体の機能を整えると考えられていました。原田は、そこに人蔘が古くから重んじられてきた理由を見出していました。
しかし、その類まれな人蔘の働きを損なわずに製品化することは、決して容易ではありませんでした。長い年月をかけ、幾度もの失敗を重ねながら、原田は工場スタッフと力を合わせ、理想とする人蔘製品をつくり上げていきました。
そして、その製品を日本で販売するために設立したのが、福岡農事研究所です。「人々のお役に立ちたい」「人々の健康に貢献したい」という想いを胸に、製品づくりに生涯を捧げた創業者・原田淳。その精神は、今もnokenのものづくりの原点として受け継がれています。